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当館の歴史

当主佐藤家

当主であった佐藤家は美濃市の出身で、1586年より福井から国主として入府し飛騨を治めた金森(長近)氏の家臣であったと言われています。1692年に飛騨は幕府の天領となり、金森家が国替えをされた際、古川に土着し、百姓となりました。そしてそれから佐藤家は、塩の卸の総元締等で財をなし、飛騨で有数の豪農となりました。

その後、8代目彦太郎氏などは、古川銀行、郵便局長、製糸工場をはじめ多くの事業を実施し、地域産業にも貢献しました。代々、文化、政治、経済、産業、医療等各分野で、数多くの役職者等がおり、飛騨を代表する名家・旧家でありました。 なお、佐藤家の詳細資料は、飛騨市に寄贈してあります。

梅村騒動を経て、明治3年に建築

佐藤家は、梅村知事が勧めた農業改革事業の推進者として農業の改善を勧める役職を勤めていたことにより、農民から反感・批判をうけ、明治2年梅村騒動で自宅を焼かれる事となった。 そのため、現在の建物は明治3年の建築。以来、ほとんど手も加えられず、明治時代初頭の「飛騨の豪農の建築様式」をよく残しており、貴重な建築物と言えます。

梅村騒動とは…

梅村騒動とは

上は明治19年、古物博覧会が開催された当時の様子です。

明治時代、現在の飛騨地方で発生した明治政府による急激な改革と、保守的な旧幕府領の人々との間で起き大規模な住民達の騒動。 水戸藩士であった梅村速水が飛騨地域の知事として就任した後、梅村が行った急激な改革に大きな不満をもった住民が学校や牢屋などを打ち壊したり、その関係者の居宅を次々と襲った事件。

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